チャールズホスキンソン氏が語る「日本のイーサリアムができるまで」(前編)

イーサリアム共同創設者として知られているCharles Hoskinson (チャールズ・ホスキンソン)氏に仮想通貨ニュース.comが独占インタビューしました!

現在ブロックチェーン技術の研究と開発を行っている「IOHK」CEOのCharles Hoskinson(チャールズ・ホスキンソン)氏。

同時に「日本のイーサリアム」として名高い「Cardano(カルダノ)」の発案やプロジェクト遂行も行っています。

Cardanoは他のプロジェクトにはないような高い品質のブロックチェーン技術を研究・開発しており、ビットコインやイーサリアムに続く、「第三次ブロックチェーン」を目標にしていることで知られています。

そんなホスキンソン氏は、「Bitshare(ビット・シェア)」や「Ethereum(イーサリアム)」の共同創設者でもある。

また、彼は発展途上国へ積極的に足を運び、貧しい人々の生活を向上させることに努めている「人道主義者」。

そんな世界から注目されているホスキンソン氏から聞いた、他では聞けない経歴や仮想通貨業界の変化。

さらに今後の仮想通貨投資の仕方などをありのままお届けします。

 
 

「自分の情熱とスキルが合わさるようなものを探していた」

-Cardano(カルダノ)プロジェクトについても詳しく聞きたいのですが、それよりまず様々な経験をしているチャールズさんご自身のことについて教えてください。

私はいつも長い答えをしがちなので、覚悟してくださいよ(笑)。

私はハワイのマウイ島生まれで、父は医者、母は専業主婦でした。

小学生から高校までは自宅ベース教育で学校には行っていません。このこともあり、私は高等教育の課程を15歳の時に終えています。

その後、母親の両親が住んでいたコロラド州に引越しました。ここはハワイと違ってロッキー山脈のような高く大きな山脈や空気も薄く、この変化に対応するのは大変でしたね。

大学へ入学した当時は、医者になろうと思っていて、医療補助員として働いていたこともあったんです。

しかし、医療業界の実体験を経て、「自分は医学にあまり向いていないな」と感じましたね。

その後、前から興味のあった数学とコンピューターサイエンスを勉強して「数学教授になろう!」と考え、コロラド大学へ進学することを決心しました。

しかし、同時に金融への興味も芽生えました。

2007年に、時間を確保して、アイオア州やニューハンプシャー州にいってRon Paul(ロン・ポール)元連邦下院議員の政治運動に参加する機会があって。

たくさんの家を回って彼の政治キャンペーンをサポートしたのを覚えています。

この時に、マクロ経済学とミクロ経済学などの伝統的な経済学の勉強では習えなかったWallStreet(ウォールストリート)の経済についてなどたくさんのことを学べたんです。

これは私にとって、とても斬新的でしたね。

またこの時期に、Friedrich Hayek(フリードリヒ・ハイエック)、Ludwig Heinrich Edler von Mises(ルートヴィヒ・フォン・ミーゼス)、Murray Rothbard(マレー・ロスバード)などの経済学者や哲学者が書いている本を読みました。

彼らの書物を読むことで、政府がどのようにお金を扱うべきかという理論を初めて学んだと同時に、「政府を変えるのがどれだけ難しいかということ」もキャンペーンを通して実感しましたね。

このキャンペーンではPaul氏 は負けましたが、私は勝利したObama氏がWallStreetを革新的に変えてくれると信じていました。

このときのオバマ大統領の政治的な力はとても強く、当時の国民からの強い期待もありましたし。

しかし、オバマ氏が大統領になったからといって、誰かが牢獄に送られることや大規模な調査はなく、銀行は力を強めるばかり。

これは私にとって、とても「苦い」経験だったと言えます。

また、この経験から学んだことは、「政治の力だけではすでに公で壊れてるような仕組みを変えることができない」ということ。

その代わりに、世の中の仕組みを変えるには、「市場の自由競争」を使う必要があると思いました。

なぜかというと、市場の自由競争だけでとても貧困な国から豊かな国か作れるからです。

例えば、戦争後の韓国など市場の自由競争を上手く利用して豊かになった国は多くありますね。

このようにPaul氏のキャンペーンに参加するなど、私は数学に興味がありながらも、金融への大きな関心もあったんです。

結局、私が当時求めていたものがなにかというと、「自分の情熱とスキルが合わさるようなもの」でしたね。

 
 

「オーマイガー!何をしよう?」

-医学、数学、経済学と幅広い学問に興味をお持ちなさったのですね。仮想通貨業界にはどのようのことがきっかけて興味を持たれたのですか?

2011年に「ビットコイン」という名前を初めて聞いたとき、「これは理論的だ!」と思ったことがきっかけ。

しかし、ビットコインには多くの問題があったのも事実。

一番の問題は、「多くの人がビットコインに価値があると信じないと、ビットコインには価値がない」ということです。

当時のビットコインは今以上に安定していなく、規制は不透明。さらにコミュニティーもとっても小さかったんです。

例えば、2011年に私はコロラド州でビットコインのMeetup(ミートアップ)に参加したことがあって、参加者は私1人でした。

このときに

「そうか、これがビットコインのMeetup グループか(笑)」

なんて思いましたね。

そのくらい当時のビットコインコミュニティーは小さかったんです。

私自身、仮想通貨は斬新で理論的に面白いものだとは思いましたが、現実的なものだとは思っていませんでした。

しかし、2013年頃にキプロスショックのような大きな銀行の問題がありましたよね。

この時、ビットコイン価格がほぼゼロから250ドルまで跳ね上がり、時価総額も約1億円以上に。

これがきっかけで仮想通貨交換所が増え、世間がビットコインの存在に気付き始めていきました。

このとき、私は再び自分のキャリアを選ばなければならなくなったんです。

当時私は「数学者になって教授になる」という道を考えていたのですが、もしこの機会を逃すと「仮想通貨の波に乗るチャンスを失ってしまう」とも考え始めました。

結局私は、中途半端ですが仮想通貨には関わり続けるという道を選びました。

そして始めたのが「Udemy(ユーデミー)」というオンラインの教育コース。

そこでビットコインに関するビデオを配信したんです。

このビデオでは、お金に関する基本的な知識や取引所やウォレット・マイニングなどビットコイン関連のことについて教えました。

この時私は「せいぜい100人くらいの生徒が集まるかな」と思っていたんですが、受講者はなんと70,000人に上りました。

とても驚きましたが、これがきっかけで今の仮想通貨業界でとても有名な人たちと知り合いになれたんです。

そんな中、2013年の6月に中国の大投資家のリー・シャウ・ラウ氏が急にメールで、

「ビットコインアドレスを渡してくれ。あなたに投資をしたい。」

と連絡してきました。もちろん最初は「これはスキャムかな?」なんて思っていました。(笑)

しかし、彼は当時の50万ドル分のビットコインを本当に送金してきたんですよ。

この時私は「オーマイガー!何をしよう」と思って、もうパニック。

しばらくパニックになっていましたが、ラウ氏は仮想通貨業界にいる起業家へ戦略的に投資している人物で、このとき中国で一番ビットコインを所有していたのを思い出しました。

そこで私はラウ氏に、

「あなたのお金を全部なくして数学に戻るよ」

と言ったら

「いいよ!」なんて言われました。(笑)

 
 

「最初のDAO(非中央集権組織)のコンセプトを生み出した」

-その資本金でどのようなプロジェクトを始められたのですか?

この時私は自分の生徒に

「いくらのお金をなくしてもいいから、仮想通貨の会社を作れるとしたら、どんな会社がベストか?」

とアドバイスを求めました。

すると私の生徒の答えは、「分散型取引所」と「ステーブルコイン(価格変動が少ない)」の2つに分かれたんです。

最初の「分散型取引所」は、当時の取引所が今以上に安定していなく問題が多くあったから。

もう1つの「ステーブルコイン」は、価格変動が大きかった当時必要でした。

日本円や仮想通貨経済やクレジットが機能するためには、なるべく価格変動が少なくなければなりませんね。

例えばあなたは水を買うためにファミリーマートやセブンイレブンに行って、支払いをしたとします。

価格変動によって買い物するたびに5~10円変動するなんて困りますよね。

こうした背景もあって分散型取引所とステーブルコインという2つの意見があったのです。

そこでこれらの2つのことを念頭に置いて、私は「Invictus(インビクタス)」というプロジェクトを開始しました。

ちなみに、ビットコインの掲示板の「Bitcointalk (ビットコイントーク)」でアイデアを募った際に最初に返信してきたのが、現在EOS (イーオス)の創設者Dan Larimer (ダン・レリマー)氏。

彼はとても頭が切れ、才能のある開発者です。

すぐに意気投合した我々は、2人で「Invictus Innovation」社をアメリカのバージニア州に設立しました。

私はそのままバージニア州に引越しをして、Floyd(フロイド)タウンにあるダンの父親の農場に移りました。

この引っ越しは私にとって、なかなかの変化でしたね。

Floydタウンに一番近い空港にいったとき、豚農場主のダンの父親スタンと三時間くらい一緒にいて豚について語られましたよ(笑)。

こんな新しい生活の中で様々な議論を交わし、最初のDAO(非中央集権組織)のコンセプトが生まれたんです。

ちなみにダンは私が一緒に働いた人の中で、最も苛立たしい人でした。(笑)

彼は「正しい」と考えたときは絶対に「間違っている」と説得できないような人だったんです。

しかも正しい・間違っている関係なしに、自分が思う方向に進んでいくようなタイプ。これは彼の一番の強みでもあり、一番の弱みでもあるんですよね。

そんなこんなで、私たちはたくさん喧嘩しました。(笑)

結果的に、私は彼と働くことにギブアップして、数か月でInvictusから脱退。

その後、私はまだ仮想通貨業界で影響力があったのでまた何かをやるべきだと思ったので私はVitalik Buterin(ヴィタリック・ブテリン)や他多数と共にEthereum (イーサリアム)を立ち上げました。

ちなみにその頃ダンは一人でBitshare(ビットシェア)を立ち上げていましたね。

 
 

「Ethereumは組織的なカオスだった」

-Ethereumプロジェクトではどのような経験をしましたか?

このEthereumプロジェクトでは、Invictusとは全く違う経験だった。

Invictusは「ステーブルコインを作るために分散型取引所を作って、世界を変える」という目標があって始まりましたが、Ethereumは「組織的なカオス」でした。

沢山の群がっている人達が様々なことをしていて、私はその中心。

CEOのVitalikを筆頭にして、なんとかビジネスモデルを作り出し、資本金が集められるように努めたのを思い出します。

数学で例えると、「沢山の点からなる軌跡を見つけ出す」ような感じ。

その頃、スイスにある豊かな自治体の「Zug(ツック)」という町に移りました。

ツックはアニメのハイジにでてくるような美しい場所で、牛にカウベルがついてたり、霧が立ち込めたりするところでした。

私たちはスイス政府弁護士にビットコインについて説明するところから始めたんです。

当時、MountGOX(マウント・ゴックス)がハッキングされたというニュースがあって、政府がビットコインについて知っていたのはそのことくらい。

それなので、「ゼロ」からのスタートではなく、「マイナス2」くらいからのスタートでしたね。(笑)

そして2014年の6月に、Ethereumプロジェクトで何を一体するのかという決断をしました。

当時のEthereum創設者は8人ほど。3人は技術に特化しており、4人はビジネス中心です。

技術のメンバーはJeffrey Wilcke(ジェフリー・フィルチ)、Gavin Wood(ギャビン・ウッド)、とVitalik。

ビジネスのメンバーには、Joseph Lubin (ジョセフ・ルービン)、Anthony Di Iorio(アンソニー・ディ・イオリオ)、Amir Chetrit(アミア・シェトリット)、Mihai Alisie(ミハイ・アリシー)でした。

私は、この二つのグループの真ん中にいました。

ちなみにビジネスメンバーは現在の「Ripple社」のような営利団体を立ち上げようという意見を主張。

ベンチャーキャピタルを使って製品を作り上げ、クラウドセールスでトークン配布するべきだと主張したんです。

私はこれを保守的な方法だと思い、賛成しました。

一方、技術のメンバーは非営利団体にしようと反論しました。

なぜなら、営利的な方法だとプロジェクトがつぶれた時に何かの間違いにつながる可能性があるということで、ICOを行って資金をつくり、それで独立したサテライト関係の会社に供給するべきだと主張したんです。

私がこれに反対した理由は、非営利団体にするとお金がプロジェクトの始めに払われるので「すぐに人がいなくなる可能性がある」と思ったからです。

また、このころは健全なビジネスユニットが存在していなく、権力をチェックするような制度もない。

この方針についての議論は一か月続き、結果的にVitalikは非営利団体にすることを決断。

すぐに私とMihaiはプロジェクトから離れました。

また、Josephも離れて、ConsenSys(コンセンシス)を立ち上げましたね。ほかのメンバーもVitalik以外の全員がはなれ、独自のプロジェクトを開始しています。

この時、私はまた大きな決断をしなければなりませんでした。

InvictusやEthereumでの経験も踏まえて、「数学の世界へ戻って自分の両親と妻を幸せにするか」、「再び仮想通貨業界でチャレンジをするか」を選ぶ必要がありました。

 
 

「数多くの仮想通貨を生み出す「工場」のようなもの作りたい」

-その当時どんな決断をしたのですか?

Ethereumのプロジェクトで一緒に働いていたJermy Wood(ジャーミー・ウッド)という日本に住んでいる友達がいて、私に

「日本に来て頭でもスッキリさせろ!」

と言いました。

日本のロイヤルホストでジャーミーと話していると、二人でビジネスを始めようということになりました。

実は、ここで現在私がCEOであるの「IOHK(アイ・オー・エイチ・ケー)」のモデルができたんです。

IOHKのアイデアとしては、「BitShare」や「Ethereum」のような仮想通貨があり、それを基にビジネスを作るのではなく、数多くの仮想通貨を生み出す「工場」のようなもの作りたいというもの。

アイデアを出していくうちに、この「工場」は二つの会社から成り立っていると考えたんです。

それは、「サイエンス専門の会社」と「エンジニア専門の会社」。

サイエンスの面では、教授、大学院生、博士研究員を雇い、優秀な人間を大学の環境に置く必要があると考えました。

そしてなによりも、絶対に「査読のプロセス」を行う必要があると思いました。

査読とは、簡単に言うと、「特定分野の専門家や教授が自分が提出した論文を評価をする」プロセスのこと。

実は、査読を行っているプロジェクトは現在でも仮想通貨業界にほとんどありません。

仮想通貨業界でよく見るような、ホワイトペーパーではなく暗号学やコンピューターサイエンスのコンファレンスで発表するような大学で終身在職権をとれるくらいの研究論文を書くことが必要だと考えたんです。

なぜなら、ブロックチェーンのプロトコールは多数のユーザーを保てる「拡張性保持」や「量子コンピューター対策」などかなり複雑。

一般のエンジニアでさえこのような知識は持っていないですからね。

エンジニア面では、一般的なプログラマーを雇うのではなく、特別なタイプのプログラマーを雇いたいと思いました。

正確には、高い保証のあるソフトウェアを開発するFormal Method (形式手法)エンジニアです。

彼らは、「ハスケル言語」と呼ばれているプログラミング言語を使います。

この言語では、人の生死にかかわるような失敗できない重要なシステムを構築するときに使います。

例えば飛行機、ロケット、新幹線などのシステムを作るとき、少しの問題でも人の死につながったり、何百億という損害につながりますよね。

また、Mars Rover (火星探索気)などが実際に稼いで問題を起こしたときに、実際に火星までいって、システムを回復させることができませんよね。

これらのようなソフトウェアは最初に起動したときに、失敗やアップデートなしに稼働する必要があります。このようなプログラミング方法はすでに30年以上使われています。

しかし、この手法は難しいですし、高価なので一般的には普及していないです。

そこで私たちは、どうしたらこの形式手法を普通のエンジニアでも簡単に使えるようになるかということも考えていました。

まとめると、IOHKはNASAが書くようなソフトウェアを開発し、学会がするような研究を行うということ目標としています。

これを使って、仮想通貨の「工場」を作り、顧客が「こんな仮想通貨を作ってほしい」という要求に答えられるようしたいと思っています。

私たちは、ICOの大ブームがくると予測しており、総百億ドルがこの市場に流れると考えています。

しかし、ほとんどのプロジェクトが開発するだけの能力を持っていないのも事実。

その結果、製品を作るための若いエンジニアを育てるのに時間がかかったり、開発をほかの企業に委託しなければならなくなります。

IOHKの戦略的には、このようなプロジェクトがアウトソースする開発を受託するということです。

それなので、企業が開発のための資金をあげ、IOHKがその開発をするという仕組みを作りたいと思っています。

-Cardano(カルダノ)プロジェクトはどのように始まったのですか?

このようなIOHKのビジネスモデルを大阪で計画している中、過去にもEthereumを購入していてるバーでポーカーを楽しむ仲間たちが、私とジャーミーに

「日本のEthereumを作れないか?」

と言いました。

私は、

「たぶんね、今はジャーミーと私だけだけど素晴らしい会社で、たぶん形式手法のエンジニアも雇えて、リサーチもするよ(笑)」

と言いました。

そのあと、私たちは交渉を繰り返し、資金調達をしてくれたら五年の契約するということになりました。

その結果、2016年に始まったのがCardano(カルダ)です。

その後、私たちは一年ほどサイエンス面での研究を行い、それをもとにして開発を始めました。

そして、2016年に最初のバージョンのCardanoを展開しました。

このとき、IOHKは10ヵ国にわたり2人から130人まで大きくなりました、100億円以上の利益がありました。

また、ベンチャーキャピタルの力は借りていません。

結果的に、私たちは現在Forbesの億万長者のリストに入っています。(笑)

「二回のプロジェクトで失敗して、望んでいたものが得られなかった」

-Invictus、Ethereum、IOHK、Cardanoまたそのた多くのプロジェクトに携わっていたのですね。

そうですね。長くなりましたが、これが簡単な私の経歴です。最初は謙虚な始まりで何をしたらいいかもわかりませんでした。

最初は兄、父、祖父のように医者になると考えていましたが、そのあと数学者になるとかんがえ、その後起業家のほうが向いているのではないかと思いました。

私は、二回のプロジェクトで失敗して、望んでいたものが得られなかったです。

そんな私でも、現在はIOHKのCEOです。

多くの科学者がIOHKで働いており、東京工業大学やスコットランドのエジンバラ大学、ギリシアのアテネ大学と共同研究しています。

実はハスケル言語を生み出したコンピューター科学者のPhilip Wadler (フィッリプ・ワドラー)氏も現在IOHKで働いています。

また、私が関わっているEthereum Classic(イーサリアム・クラシック)、 Zcash(ゼィー・キャッシュ)、Cardano(カルダノ)の三つのどれも順調です!

 
 
 

今回はここまで。

次回ではチャールズホスキンソン氏が昔と今で仮想通貨業界がどう変わっていったのかなど、独自の視点で解説しております。
今や仮想通貨業界では知る人ぞ知る著名人であるホスキンソン氏。

今後の活躍に期待ですね!